理不尽な環境にいると、人は不思議なほど自分の感覚を信用できなくなります。
「自分の受け取り方が悪いのかもしれない」「そこまで酷くなかった気もする」「他の人は平気そうだし…」こうして、起きた出来事そのものよりも、自分の感じ方を疑ってしまうことはありませんか。
これは性格の問題ではありません。構造の問題です。
理不尽が日常化すると、違和感は言語化されないまま流され、気づけば「何が辛かったのか」すら曖昧になっていきます。それなのに、その場所にいることだけがしんどくなる。
本日は、「記録」のお話。
理不尽は、記憶より先に消えていく
理不尽な出来事ほど、はっきり覚えていそうで、早く薄れていきます。
- その場では強烈だった言葉
- 納得できなかった指示
- 理不尽だと感じた態度
時間が経つと、「あのときは忙しかったから」「自分にも落ち度があったかもしれない」と、現実が書き換えられていきます。
これは人間の精神的な防衛反応でもありますが、同時に、自分を守る材料を失っていく過程でもあります。
記録は、感情を煽るためのものではなく、現実を固定するための装置です。
日記やメモは「証拠」ではなく「視点」を残すもの
ここで言う記録は、完璧な日記や、綺麗な文章である必要はありません。
- 日時
- 何が起きたか
- どう感じたか
重要なのは、「正しいかどうか」ではなく、その時の自分が、どう受け取ったかを残すこと。あとから読み返したとき、「やっぱりおかしかったんだな」「ずっと同じことで消耗していたんだな」と、自分の状態を客観視できるようになります。
記録が「自責ループ」を止める
自責が止まらなくなるとき、人はこう考えがち。
「自分が我慢すればいい」「どこへ行っても同じ」「結局は自分の問題」。しかし、記録を積み重ねると、別の景色が見えてくることがあります。
- 同じ人物から、同じ圧を受けている
- 同じタイミングで、同じ無理を強いられている
- 自分が変わっても、状況が変わっていない
これは、「あなたが悪い」という話ではありません。構造が再現されているという事実です。
記録は、「これは個人の問題なのか?」という問いを、自分に返すための材料になります。
辞める・辞めない以前に、記録は役に立つ
「辞めるつもりがないなら、記録しても意味がない」「退職するなら証拠として必要」というのは、よくある誤解ですが、どちらも一部は正しく、一部は違います。
- 自分の状態を把握する
- 限界の兆候に気づく
- 判断を急がないための材料にする
実際、記録を続けることで、「これはもう耐える話じゃないな」「今すぐ辞めなくても、準備は必要だな」と、判断の精度が上がる人は多いです。
「理不尽を記録する」ことは、戦うことではない
記録というと、「告発」「反撃」「証拠集め」のように感じる人もいるかもしれませんが、筆者が思う記録は違います。
記録は、会社を追い詰めるためでも、誰かを訴えるためでもなく、自分が壊れないための行為。
誰にも見せなくていい。評価されなくていい。正解である必要もない。
「自分は、こう感じていた」その気持ちを残すだけ。
結論|記録は「自分を信じ直すための行為」
理不尽な環境に長くいると、人は「自分の感覚」から切り離されていきます。
日記やメモは、過去の自分が、未来の自分に向けて残す小さな救命具。すべてを変えなくていい。すぐに動かなくていい。
まずは、今日あった違和感を一行書く、引っかかった言葉をメモする。
理不尽を記録することは、戦う準備ではなく、自分の心を守る備えです。

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