会社で働いていると、誰でも一度は「なんかおかしいな」と感じる瞬間があると思います。
理不尽な指示、曖昧な責任の押し付け、言い返したら“空気が悪くなる”。そしてそれを言葉にした瞬間、「被害妄想」とか「お前が悪い」と言われてしまうこともあります。
現実として、理不尽に耐えている人ほど不利な構造の中に置かれている。筆者もその中の一人として、ずっと違和感を抱きながら働いています。
会社が勝つ構造。会社という組織は、基本的に「情報」と「権限」を握っています。社員はその命令系統の中で動き、与えられた役割を果たすことでお金を得る。
つまり、会社は“上の指示に従って働く場所”として設計されているのです。
正しいかどうかを決めるのも、ほとんどが上の立場の人。たとえ現場が違和感を抱いても、「上がそう言うなら」が優先される。意見を出しても、立場の弱い側の声は届きにくいのが現実です。
ときには、上司の感情や気分で叱責されたり、人格を否定するような言葉を浴びせられることもある。それが日常化していても、「指導の一環」や「コミュニケーションのズレ」として処理されてしまうことが多い。「受け取り方の問題」とされ、傷ついた事実そのものが軽く扱われる。
結局、問題の根っこは誰の責任にもならないまま、誰も気づかないうちに人が静かに傷ついていきます。
実際、筆者はかつて上司に「お前、ぶっ飛ばすぞ」と言われたことがある。思わず疑いの目を向けると、「冗談だってわかるだろ? お前、そういうとこだぞ。コミュ力ないな。」と返された。その瞬間、加害の言葉が“冗談”にすり替えられ、受け止め方の方が問題にされる構造を痛感しました。
そして、労働基準監督署や法律も「明確な違反」がない限り動かない。暴言や圧力といった行為は、その場で録音でもしていない限り証明が難しい。しかも、勤怠データや業務記録などの“証拠”は会社が管理する。だからこそ、声を上げるしかないのに「証拠がない」と片づけられ、逆に冷たく扱われてしまうことさえあります。結局、泣き寝入りしか選べない人が多いのが現実です。
さらに厄介なのは、日本に根づく“我慢文化”。「空気を読め」「穏便に」「波風立てるな」そんな言葉が、人の痛みを本人の望まぬかたちで薄め、やがて忘れさせていく。理不尽に耐えることは、いつの間にか“仕事の一部”となり、その我慢が給料の中に含まれる。
そうして今日もまた、多くの人が傷を抱えたまま、悩みながら働いています。
もちろん、すべてが「被害」ではない。筆者自身が、会社員として働く中で思うのは、ときには自分の心が疲れすぎていて、現実を歪めて見てしまうこともあるということです。
人間関係が苦手だったり、うまく伝えられなかったり。そういう部分から「理不尽」と感じてしまうケースも、きっとある。
だからRIFUZINESは、誰かを一方的に“正しい”とも“間違っている”とも言いません。
被害者・加害者という線を引くのではなく、なぜそう感じたのか、その背景を一緒に考える場所になればいいなと思っています。
RIFUZINESは、怒りをぶつけるための場所ではありません。理解し、記録し、共有するための共鳴体です。誰かの声を通して、「これは個人の問題ではなく、仕組みの問題だ」と見えるようにすること。これが、このメディアの存在意義在だと思っています。
選択には、その人なりの理由がある
誰もが完璧な選択をして生きているわけではありません。たとえば「辞めたいのに辞められない」「何も言えずに従う」それは消極的な選択に見えても、生活や家族を守るため、あるいは“今を生き抜くため”の決断かもしれません。RIFUZINESは、そうした“生きるための選択”を否定せず、結果ではなく「なぜそうなったか」に焦点を当てていきたいと思っています。
RIFUZINESの想い
理不尽に耐える人が、少しでも自分を責めずにいられるように。「間違えたくない」と思う人が、安心して考えを言葉にできるように。沈黙や孤立が、“知識とつながり”へと変わっていくように。大きな声で社会を変えることはできなくても、静かに立ち止まって考える場所があってもいい。働く人たちの小さな不満が集まれば、いつか大きな声になるかもしれません。
RIFUZINESは、誰かの痛みや気づきが、そっと響き合う場所でありたいです。
会社というのは、勝つように設計されています。だからこそ、負ける側の声にフォーカスする。その声の中には、勘違いや偏りもあるかもしれない。でも、「語られた」という事実自体に価値がある。
筆者も、ただの一会社員として、理不尽な毎日の中で生きています。どうぞ、気楽に読んでいってください。
